世界の他の多くの街と同じく前橋にも、非常に異なる作品を作るアーティストたちがいて、彼らはそれぞれにアートの道を模索している。これらのアーティストの共通項を研究するような「前橋派」なるものが無いとすれば、彼らの芸術試行はさまざまで、唯一共通に投げかけられる質問は、今日の芸術とは何か。というものになる。

21世紀は、芸術の問題にとって殊に不確かな世紀である。全ての問いかけ自体が、芸術の存在そのものを脅かす。なぜなら、芸術そのものが無数の答えの中に溶解してしまうからである。実際、芸術は未来の革命を構築するための過去の革命の記憶を確実に覚えている。芸術は、そのようにして、技術、政治、感情、調和、カオス、社会性、経済、哲学、道徳、宗教、数学、日常、形式、物質的、造型的、機能的なものに私たちの日常を細部にわたって転換してく。

しかし、ワーグナーによれば、音符と音符の間に存在する静寂こそが音楽であるとされる。アートとは、まさに物事と物事の間に存在するものではないか。言い換えれば、モノとモノ、学問と学問、人と人の間に存在するなにものでもないものではないか。不在によって成り立ちながらも、関係性を作るものともいえるだろう。今日のアートとは、不在そのものともいえるが、同時に日常のさまざまな行為の中に浸透してもいる。歯車の油のように哲学的思考の動力となりうる。それは、音符に調和や不協和音を生み出すための静寂によく似ている。

前橋に在住の大崎久雄氏に出会うことで、私はこのような考えを作品にする機会を得た。大崎氏は、刃物屋を営んでおり、包丁、のこぎり、鉈、木鋏、鑿、庭の手入れのための道具などの刃物を売るだけでなく、研ぐことも仕事にしている。

大崎商店は、1951年以来、群馬の様々な職種の交差点のようなところだ。大崎氏は、地域に生きる職人や農家などから彼らの道具をより機能的にするために任される。大崎氏の存在や彼のこれまでの経験は、「人」と「手仕事」を結びつけるなにかを語っている。空虚や物質からの離別という考えは、ある種の精神性の中で実現され、人間の一つ一つの行為に意味を添えるものである。それこそが、芸術というものなのかもしれない。

ジル・スタッサール 前橋にて 2017年1月19日